冷え込む冬の朝
その日は冬の冷え込みが一段と厳しく、薄暗い空にはまだ夜の名残が漂っていた。私は高校最後の大一番、大学受験の当日を迎えていた。朝早く起きてから何度も鏡の前で自分を見つめ直し、深呼吸を繰り返した。母が作ってくれた軽い朝食を口に運びながらも、緊張で胃が重く感じたのを覚えている。普段は気にしないような些細な音やにおいまでもが、私の感覚を鋭く刺激していた。全てが大げさに感じられ、心臓が強く鼓動しているのが自分でも分かった。
家を出ると、空はまだ灰色で、冷たい風が頬を刺した。いつもなら自転車で駅まで向かうところだが、その日は違った。母が「寒いし、試験前に体力を使うのも良くないから」と言って、私をタクシーに乗せる準備を整えてくれていた。そんな母の気遣いに感謝しつつ、私は玄関で最後にもう一度深呼吸をしてから、タクシーに向かった。
タクシーの中での出会い
出発の時間になり、家の前で待っていたタクシーに乗り込んだ。母が手配してくれたタクシーの運転手は、見た目は年配の男性で、柔和な表情が印象的だった。「〇〇大学までお願いします」と、私は運転手に告げた。運転手は私の緊張を察したのか、にっこりと微笑み頷いてくれた。タクシーが静かに動き出すと、窓の外には薄らと雪が降り始め、私はその様子をぼんやりと眺めながら、今日の試験に対する不安と期待で胸がいっぱいだった。
タクシーの中は外の寒さとは対照的に温かく、エンジンの音が心地よいリズムを刻んでいた。しかし、その心地よさも私の緊張を完全に解きほぐすには至らず、手に汗をかいているのを感じた。外の景色は次第に都会の雑踏へと変わり、見慣れないビル群や人々の行き交う様子が視界に広がっていった。そんな時、ふと運転手が話しかけてきた。
心をほぐす運転手の言葉
「受験生かな?昔、私の娘も君くらいの年の頃に受験を迎えたんだよ。あの時もこんな寒い日だった。」私は話しかけられたことに驚きながらも、少し安心感を覚えた。運転手の話し方は穏やかで、その言葉の一つひとつが私の心を落ち着かせてくれるようだった。彼は続けて「娘もその時はすごく緊張していてね。でも、受験が終わったら一緒に温かいラーメンを食べに行ったんだ。あの日のラーメンの味は今でも忘れられないよ」と懐かしそうに語った。
さらに彼は、自分の娘がその後どうなったのか、大学生活でのエピソードや彼女の成長についても話してくれた。娘さんが大学で多くの友人を作り、様々なことに挑戦して自分の可能性を広げていった話を聞いているうちに、私の中で少しずつ緊張がほぐれていくのを感じた。彼の話はまるで自分に向けた励ましのメッセージのようで、自然と笑みがこぼれてしまった。
運転手はさらに「君もきっと、大丈夫だよ。今まで頑張ってきたんだから。その努力は必ず報われる。自分を信じて、自分の力を信じて挑んでおいで」と、優しく背中を押してくれるような言葉をかけてくれた。その言葉に私は何度も頷き、いつの間にか肩の力が少し抜けていることに気がついた。
試験会場へ向かう勇気
やがてタクシーは目的地の大学に近づき、受験会場の建物が見えてきた。雪はますます強くなり、地面には薄く積もり始めていた。車が大学の正門前で止まると、私は深呼吸をし、運転手に「ここまで本当にありがとうございました」と感謝の言葉を伝えた。彼は再びにっこりと微笑んで「きっと大丈夫だよ。頑張って」と励ましの言葉をかけてくれた。
タクシーを降りると、冷たい風が私の顔を吹き付け、いよいよ試験が始まるという現実が押し寄せてきた。だけど、運転手との短い会話のおかげで、私は少しだけ自信を持って試験会場の門をくぐることができた。彼の言葉はまるでお守りのように私を支え、前に進む力を与えてくれた。
試験会場の中では、緊張で固まっていた心が少しずつ溶けていくのを感じた。周りの受験生たちも同じように緊張しているのだろうと考えると、少しだけ心が軽くなった。試験の開始の合図が鳴り響くと、私は深呼吸をして問題用紙に向かった。集中して解答することで、不安な気持ちは次第に消え去り、自分が今ここでできることに全力を尽くすのみだという思いが強くなった。
試験が終わり、再び外に出ると雪はやんでおり、太陽の光が雪の積もった街並みを照らしていた。私はふと、今朝の運転手の言葉を思い出し、心の中で感謝の気持ちを込めて「ありがとう」とつぶやいた。試験の日の朝、タクシーの中で出会った運転手との短い会話は、私にとってとても大切なものとなった。彼の優しさと励ましの言葉があったからこそ、私は自信を持って試験に臨むことができたのだ。
あの日の出来事を振り返ると、私は人と人との出会いの大切さを改めて感じる。たった一言の言葉や小さな優しさが、どれほど人の心を支え、勇気づけることができるのか。今でもその日の出来事を思い出すたびに、あの時感じた安心感と勇気が胸の中に蘇る。そして、私もいつか、誰かの心を少しでも軽くできるような存在になりたいと強く思うのだ。
e5mt2ny7s著